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今、自然農法を真剣に考える その一

初めに

私は最近、自然農法について色々調べていましたが、福岡正信さんには大変な感銘を受けました。

福岡さんは横浜税関の植物検査課に勤めていらっしゃいました。日中は植物病理学の研究などをし、夜は他の若者と同じように遊び歩いたりと、若い時分は世俗的な方であったようです。研究室で缶詰め状態で仕事をしていたせいか、心身の疲労があったのでしょう。ある日、急性肺炎で警察病院の病室に放り込まれてしまいます。孤独感や日常からの転落など色んな事が相まって、死の恐怖と言うようなものに直面してしまったそうです。後から考えると無用な恐怖であったと振り返っていますが、その時はそのように感じてしまったのでしょう。

今まで自分が信頼していたものは何だったのだろうと、懐疑心と懊悩に苛まれ、眠れない、仕事が手につかない。精神分裂症の一歩手前だったと述懐しています。この時の彼の心理状態は彼自身でしか分からないでしょう。

ある日、夜を彷徨い歩き続けた後、港が見える丘の上で、木の根元に寄りかかり微睡みの中にいました。夜が明け始め、崖の下から吹き上げる風が朝靄を晴らし、五位鷺(ごいさぎ)が羽音を立てて一声鳴きながら飛び去りました。その瞬間、混迷の霧が吹っ飛んでしまったそうです。

思わず出た言葉が「この世には何もないじゃないか」。「この世」とは恐らく「人の世」のことでしょう。森羅万象がこれまでと全く違って見えたようです。この翌日、職場に辞表を提出して仕事を本当に辞めてしまい、全国を放浪した後に郷里へと帰ったそうです。一見すると正気を失ってしまったように映るかもしれませんが、案外人生の転換とはこのような些事から発生するのかもしれません。有り触れた自然の光景が、普段なら気にも留めない日常が、その時の感情や心身の状態によって異質なものとして目に映る。そこから天啓を得る。何となくわかるような気がします。

イギリスのインディーバンドでLongpigs(ロングピッグス)というのがあります(解散していますが)。そのバンドの歌手であったクリスピン・ハントの話を思い出しました。彼はある日交通事故に合ったことで、それまで自分は無敵だと思っていた自信をいとも簡単に失った。ある島では人間をロングピッグスと呼ぶそうです。何のことは無い、人は豚と変わらない。そのような思いからバンド名をつけたとのこと。もう随分と前に読んだ記事なので間違いがあるかもしれませんが、そのような趣旨だったと記憶しています。

私自身も覚えがあります。私が電気屋に勤めていた頃、過重労働と病気で苦しんでいた頃ですが、電気の仕事自体は好きで、何となくこのままこの仕事を続けていくだろうと漠然と思っていました。しかしある日、休日出勤までして下らない「作業責任者資格の更新のための講習」とやらを受けていた時。自分は休みを返上してまで何をやっているのだろう?どうでもいい資格のために貴重な休みを潰してまで、何の意味があるのか?形容しがたい不満やら怒りやら、不安、疲れなど複雑に入り混じった感情が渦巻いて、その日の内に「よし、もうやめだ!」とあっさり退職を決めてしまいました。

自分なりに頑張ってきたつもりで、それなりに責任感や向上心を持って仕事をしていました。入院や冠婚葬祭を除いて、自己都合で休んだことも、遅刻や欠勤など一度もありませんでした。でもどうしようもない感情が働いて、それまで信じていたものが一気に価値を失った瞬間でした。こんなことは誰にでも経験があるのではないでしょうか?

現在は人類経済の行き詰まりに直面し、終わる事の無い自然破壊とその反動によって自然災害は年々脅威を増しています。今や人類は滅亡の回避可能・不可能の分岐点にいます。これは冗談でも何でもなく、識者の間でも今世紀中に人類は滅ぶと考えている人達は少なくありません。人は難しく考えすぎですが、問題解決の糸口は、福岡さんや奇跡のリンゴで有名な木村秋則さんの言葉の中にあると思います。彼らの著書の中で、人がやるべき事をごく簡単で短い説明で済ませています。

福岡さんは農業従事者だとか、農学の研究者と言うより思想家だと思います。営利や商売を存続するための農業ではなく、自分が食べて生きる為だけに米を作っていたようなところがあります。しかしながら、自然農法で農作物を育て、且つしっかりと生計を立てたいと思っている人達にも、彼の理念は必ず参考になると思います。

彼の残した本には、農法だけでなく、自然との向き合い方や思想的な内容の他、日本の食糧事情や裏話など色々な話題があり楽しませてくれます。また、食の安全の観点からも見ても重要な事が多いので、農業関係者以外の人達も読むべきです。福岡さんは2008年8月16日に亡くなられていますが、存命の内にお会いしたかったです。

今回の記事は、人類救済の要である自然農法について語ろうと思います。

何もしない農法

福岡さんは30年以上かけて「何もしない農法」を目指したと言っています。彼はこれを惰農とか楽農と言う、洒落た呼称をしています。普通の考え方だと、近代技術をありったけ寄せ集め、知恵を絞ったものが最高だと考えるでしょう。彼はそれとは逆の手法を取りました。農業技術を一つ一つ否定していく。一つずつ削っていって、最後に残ったものが本当にやらないといけないこと。そのように考えました。自分が(百姓が)最大限に楽をすること追求したのです。それで出た答えが無肥料(化学肥料)・無農薬・無除草・不耕起(耕さない)の四本柱で行われる自然農法です。読んで字のごとく「しないといけない」ではなく、「これとこれはやらない」と言う手抜きの教えです。

楽して仕事をする、というのは業界・業種を問わず至極当たり前の事だと思います。日本では何故か苦労することが美徳とされているようです。逆に手を抜く・楽をすると言うのが怠惰であるとか、悪い事だとする風潮がないでしょうか?自分は〇日休んでいないとか、〇〇時間残業しているとか、苦労自慢が多いですよね。週5日、一日8時間きっかり働いて残業や休日出勤などせず利益を出す。それを本気でやろうとしないのが日本人。楽してお金を稼ぐ方が絶対良いに決まっています。

だから今だに高校野球は練習時間が長く、決まって頭は丸刈りにしているでしょう。練習時間を多くして頭を丸めれば強くなれるなら、苦労はしません。この根拠の存在しない精神論・根性論が罷り通っているから、日本はいつまで経ってもあらゆる分野で非効率で成長が悪いのでしょう。時間を決めずにだらだらとやるより、質の高い教育を施して「ここまでしかやらない」と区切るべきです。時間をかけて扱くという考えに対して真逆である「ゆとり教育」でも、片やフィンランドは成功していますが、日本は失敗しました。

日本が成長できない要因の一つとして、どうでもいいような事に時間を費やしたり、拘ったり、有難がるというある種、宗教めいた考えが浸透している事も上げられます。例えば自転車操業しているようなゆとりの無い零細・中小企業が、大企業の真似事で毎日朝礼だのQCサークルなどやっても、現場の意見が汲み上げられたり、品質や現場の労働環境の改善に繋がることは絶対にありません。会議も同じです。何か意見を出せば仕事をやっている気になったり、内外に向けて私達はこれだけやっていますよ、という対面や体裁を繕うだけの結果にしかなりません。私自身、職場の会議で提起された問題が解消したことなど、全くありません。やってもいいけれど、やるならやっただけの成果がないと無意味でしょう。こんなわけで、堂々と何もしない農法を目ざす、と口に出せるのは今の日本の社会では鮮烈に、或いは奇異に見えるのかもしれません。

福岡流米麦作り

福岡さんが実際に行っていた、米と麦の作り方を紹介します。

彼の田圃では反当たり10俵以上出来るそうですが、農薬や除草剤を使った農法と変わらない、或いはもっと収量が多いみたいです。米だけでなく麦も栽培し、稲藁の堆肥があり、除草しないために色んな虫が集まって来る自然な畑になります。これは自分の果樹園の土を「山の土」に近づけた木村さんと同じ考えでしょう。虫が多いと言う事はそれを捕獲しに来る他の生物がいて、死骸や糞が当然出るものですから、それを分解する微生物が地中に宿って生きた土になります。虫も蛙も蛇も鳥も、生き物みんな喜ぶ環境になるのでしょう。

一部の農薬は鳥類の精子減少などに影響を与える事が分かっています。日本の朱鷺が絶滅した原因の一つでもあります。また、農薬は人体にも極めて有害です。特に悪名高いラウンドアップの主成分であるグリホサートネオニコチノイド系農薬が最も有害です。これらについては別の記事で詳しく書きたいと思います。

福岡さんの農法は米麦連続不耕起直播と呼ぶそうです。平たく言えばただの二毛作なのですが、これにはこつがあります。

秋のまだ稲がある10月上旬にクローバー(白詰草)の種を蒔きます。中旬(稲刈りの2週間ほど前)になったら麦種を蒔きます。稲刈りの後、脱穀が済んで出来た稲藁は、長いそのままで(切ったりせずに)田全体に振りまきます。これが堆肥になります。11月中旬以降、稲の籾種を粘土団子にして播きます。籾は正月前に播くと、鼠や鳥に食べられたり腐ったりするので、粘土団子にするそうです。その後で乾燥鶏糞を散布すれば種播きは終わりです。5月の麦刈り・脱穀が済めば同じように麦藁を長いまま田全体に振りまきます。

クローバーの繁茂が激しい時は、4日~7日ほど田に水を溜めて、成長を抑制します。稲と麦が交互に栽培されるので、収穫の際にそれぞれの苗を踏んでしまいますが、倒れてもやがて回復するので問題ないようです。

文字にするとたったこれだけの内容です。ここは想像ですが、あえてクローバーという雑草の種を蒔いて繁茂させるという手法ですが、これは理に適っているのでしょう。クローバーはあまり成長せず背丈が極めて低いので、稲や麦の成長に必要な養分を過剰に奪うことが無かったり、日照を妨げない他、横に広く群生して隙間なく葉が覆われるので、他の雑草が育つ余地が無いのだと思います。クローバーは白詰草とも呼びますが、一見和名のようで外来種です。虹鱒やモンシロチョウも外来種ですね。日本の原風景に近付けるために、クローバーの代替として在来種や固有種の雑草でこれが出来たら面白いですね。

クローバーの繁茂が激しい時は水を溜めていたそうですが、福岡さんの田圃は陸稲(りくとう)なのでしょうか?稲はもともと熱帯植物なので寒さに弱いです。なので雑草や害虫対策以外に、温度を保つために水を張ります。福岡さんの故郷である愛媛は温暖なので、水田にしなくてもいいのかもしれません。

それから、麦は冬の作物なので稲ほど害虫や雑草に悩まされないので、無農薬・無除草の自然農法とは相性がいいでしょうし、麦藁が稲を育てるための堆肥となる極めて合理的な農法なのだと思います。結果として一年中無駄なく農作物を育てられ、稲と麦お互いが共存・共栄の関係にあり、雑草があるおかげで生物に溢れ、豊かな自然の土が生まれると言う相乗効果となっているのでしょう。

自然農法の四大原則

福岡さんが提唱する自然農法の四大原則とは以下の通りです。

①不耕起・・・田畑は耕すものという常識を捨てる。機会で耕耘しなくても植物の根、微生物、土竜、蚯蚓(みみず)などの生物的耕耘の方が、人為的なものより優れている。自然に任せておけば、黒く深く肥えてくる。山の土に近い腐植土となる。

②無肥料・・・本来の自然の土壌は、そこで動植物の生活循環が活発になればなるほど肥沃化していく。肥料に含まれるリンや窒素は本来、地中に存在しているので人間が手を加える必要は無い。

③無農薬・・・自然は常に均衡を保つため、人間が農薬を使わなければならないほどの病気や害虫(害虫と呼ぶのは人間だけで、自然界にはそもそも善悪など存在しない)は発生しない。

④無除草・・・雑草は生えるべくして生えている。雑草が生える事には意味があり、何かの役に立っている。同一種が土地を占有するわけではなく、時が来れば必ず交替する。

④を補足すると、雑草は生物の餌であり、住処であり、産卵場所であり、隠れ蓑となります。虫が増えればそれを捕食する蛙や鳥類、土竜などが増えますし、蛙を捕獲する蛇が現れたり、集合した生物に花粉が付着して、人間の手を煩わせなくても作物の受粉を自動でやってくれます。農作物の七割が他の生物による受粉に頼っているので、生物の多様性が失われれば、必然的に農作物は育たなくなります。かの有名なアルバート・アインシュタインはこんな言葉を遺しています。

「蜜蜂がいなくなれば、人類は4年で絶滅するだろう」

庭に草が生えていると「見た目が悪い」と言う人が大多数だと思いますが、私は真っ向から反対します。人間は自分達の一方的な尺度で美醜を語っていますが、むしろコンクリートで固めたり、砂利を敷き詰めたりして草木一本も生えていない現代の日本の住宅は、不自然極まりなく、全くもって醜いとしか言えません。私の実家でも以前から雑草を抜くのが面倒という理由で除草剤を散布したり、近年は厚く砂利を敷き詰めたりしています。おかげで捩花(ねじばな)や菫も生えなくなりました。何とか親を説得してこれらは止めさせたいです。

色んな地域で紅葉や人工的に整備されたお花畑を、観光客を寄せるためにライトアップとやらを盛んに行っていますが、人間が手を加えれば自然がさらに美しくなると思っているのでしょうか。あまりに傲慢で、思い上がりも甚だしいです。人の意匠を加えても自然の美しさは不変なだけで、人間の醜さが浮き彫りになるだけです。高層ビルが立ち並ぶ夜景を見て「綺麗だね」と言う人達も全く理解できません。あんなものは文化も、歴史も、自然も、信仰も全く関係ない、魂の籠っていない人工物にすぎません。地上の明かりを一斉に消せば極上の星空をただで拝めるのに、何を寝言を言っているのでしょうか。

私が子供の頃はすぐ隣のお家に面積は狭いですが、竹藪がありました。藪蚊は多かったものの子供にとっては絶好の遊び場でした。オカルト的な話ですが、私の家から見て鬼門(1時~3時方向)にあったので私にとっては結界の役割がありました。竹藪には鬼は侵入出来ないそうです。

以前は竹藪があったり、庭の雑草はもっと多かったので、今より虫も鳥も沢山いました。近所に空地も多かったので他所から飛蝗が移動してきたり、蛙がやってきたり、夏の夜には網戸にくわがた虫が張り付いたりしていました。家屋の中に百足が現れたりはしょっちゅうでしたし、たまに蛇も見かけたりもしました。雨上がりの庭には色んな茸がよく発生したものです。今ではそんな光景は消滅しました。本当に生物の種類が激減したのを実感しています。つい先日も、子供時代にとてもお世話になった広い畑があるご近所さんが、家を売り払いました。その跡地は日照権を無視した私なら絶対住みたくない家々が、手を伸ばせば届きそうなほど密集して立ち並ぶ住宅地に変わってしまいました。蓑虫も、蝸牛も、笄蛭(こうがいびる)もみんなみんな、姿を消しました。雨上がりの路上にできた水溜りにあめんぼが泳ぐ姿も、もう何十年も見ていません。こうして人間の一方的な自然の略奪によって、沢山の生命の灯が消えています。本当に悲しい事です。そして私自身もそれを作った責任の一端があり、己の愚かさと無力さを感じています。

最近仕事で草取りに出かけていますが、面白い発見をしました。種類は分かりませんが、非常に根が強い雑草がありまして、普通に手の力だけでは抜けないので鶴首を使っています。しかし、一部では同じ草でも簡単に引っこ抜ける場所がありました。抜いてみると雑草の下が広い範囲で蟻の巣となっており、そこだけ土がとても柔らかくなっていたのです。

木村秋則さんによると山の土はふかふかで柔らかいそうですが、まさに生物の活動によって土が柔らかく耕耘されていたのでしょう。このように自然と触れ合い、新たな発見があるのはとても楽しいですが、そうであるからこそ、この草取りという作業は無意味であり虚しさを感じました。雑草が生えるのは意味があってのことですし、無駄な時間とお金と労力を使って除草などしなくていいのでは?と思います。生えるままに生やしておけばいいと思います。

農薬を使わなくても収量は減らない

農薬を全廃したら収量が何割も減少するだろうと一般の人(農家の人も)思うでしょうが、実際はそうはなりません。肥料や農薬をやらなくても、せいぜい収量は一割減程度で済みます。自然界には相補性とか相殺性という作用が働き、自然に復元する力は非常に強いのです。

猪や鹿による農業被害は深刻ですが、何故このような事態が起きているか。その原因の一つは天敵である日本狼の絶滅にあります。本来であれば一つの種が一方的な支配を行う自然界ではありませんが、人間が自然を破壊する事により、人智の及ばない自然の秩序が乱されてこのような混沌が生まれます。山野の整備も重要ですが、一つの種を滅ぼしたことが禍根となっているのは明白です。完全な自業自得です。

福岡さんは元研究者であり、農業試験場で試験もされていたので説得力があります。農薬の使用をやめても、5年程度で収量は回復します。フランスでは有機農法に転向する農家に対して、5年の期限付きで補助金を出しています。有機農法に変えても、5年もすれば収量は回復するのです。

害虫の被害率を調べる方法として、100本中白穂(枯れて白くなった稲穂)が何本あるか数えるそうです。白穂ができる原因として気温の低下や害虫による被害があるみたいです。薬をかけて白穂が一本もないような田にしても、収量はさほど高くない。逆に白穂がある田の方が収量が高いことが多いそうです。彼も試験誤差と最初は思っていました。

これを良く調べてみると、出来過ぎている稲に虫が付き、稲をまばらに刈り取ってくれているのを発見しました。日光が繁り過ぎた稲を透過して、根元まで多く届くように間引いてくれるのです。

農薬試験場の報告書には薬剤散布の効果という項目があります。農薬を使うことで増収になることもありますが、減収になることもあります。農薬会社がこれを利用する場合、悪い成績は(対して害虫に対して効果を上げない結果)試験誤差として捨てています。

その二へ続きます。

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