食料汚染
農薬まみれの農作物が市場に溢れた原因の一つとして、消費者側にも問題があるというのを理解せねばなりません。みんな形が整った見た目の良い物、甘味の強い物を求めたりします。「形の整った」とは見てくれ以外にも、大小が統一されたという意味合いもありますが、これは戦後にスーパーが流行した事と関係があります。商品を陳列棚に綺麗に納めるために、形を整え始めたというのが起源です。商店の都合がその内に、見た目の良い物=良い商品という図式にすり替わっていったのでしょう。
農作物は糖度が一度増す度に値段が高く付けられたり、傷や汚れがあった場合は大きく値段を下げられてしまいます。市場と買う側の都合に振り回されて、農家が苦労をしていると言う事実があります。苦労をしている農業従事者自身や、周りの人達も異を唱えないので、本当は良くないと理解しているのに、なあなあとしたまま、ここまで来てしまったのでしょう。
夏に出る時季外れの温州蜜柑などは、10倍・20倍の値段が付いたりするそうです。冬の間に温室で育てるわけですが、ちょっと早く食べたいというだけで、無駄な努力と設備投資をしています。
苺も本来は春の果物ですが、企業のクリスマス戦略に乗せられて、寒い時期に温室で栽培します。当然、植物にとってはストレスがかかるものですから、病気になり易く、余計に農薬などが必要になる訳です。大人しく露地物(旬の物)を食べておけば良いものを、人間の肥大化した欲の為に鞭を撃たれて、早く育てと強制労働させられているようなものです。無理やり成長させられるブロイラーと一緒ですね。鶏は成長に3か月ほど要しますが、薬でもって無理やり3,4週間で成長することを強制されているのです。こんな怪しげな食肉が全体の9割も占めているのが日本です。
色付きが悪い時期に早く出荷するために蜜柑の色付けというのも行っているようです。早く出そうと思うと甘味も足りないので、人工甘味剤もかけられます。
共同選果場では大小の選別のために長い距離を転がされるので、たくさん傷が付きます。なので防腐剤や着色剤が吹き付けられ、最後の仕上げに光沢を出すためのワックス仕上げ=流動パラフィン+蝋付けをします。流動パラフィン(鑑識などにも使われる)は食べ物に塗布するのは基本的に禁止されているようですが、果物類は何故か放置されています。ここまで来ると、農作物と言うより工業製品ですね。
もし消費者が見た目など気にせず、地域で取れた旬の物を、自然な味のまま口にすることを当たり前にすればどうなるか?農家の負担は減り、結果として安全で美味しく鮮度の高い食べ物が、安価で手に入ることになるでしょう。また、現在店頭に並ぶ農作物は大きさだけではなく、販売時の重量も統一されていますが、これを必要とする分だけ購入出来る量り売りにすれば、独身の人達でも買い易くなり、使い切れずに食材を廃棄することもなくなるでしょう。商品をまとめるためのビニールなども不要となります。かつては当たり前の光景だったのでしょうが、私はこの原点に回帰すべきだと思っています。
原点に回帰し、食料自給率を取り戻せ
現在の日本は食料自給率が38%、ほとんど輸入に頼っています。戦後間もない頃は食料自給率が90%近くあったのに、どうしてこうなってしまったのか?それは、戦後日本のアメリカによる占領統治と関係があります。ダグラス・マッカーサーは「日本の学校給食にはパンと牛乳が良い。米ばかりを食べているから日本人は頭が悪くなる」と言って、余剰在庫である小麦の処分地として日本を利用したわけです。米の需要が減り、日本の農業は衰退していきます。飼料も外国産のとうもろこしや麦、大豆と取って代わられました。飼料の自給率は食料のそれよりもさらに低い数値(28%程度)です。かつては国民の7~8割が農民でありましたが、現在は2割を下回っています。
さらに減反政策と、その補助金に群がる農協と兼業農家の存在なども農業衰退の主原因ですが、これについてはまた別の機会があれば。
食料自給率が100%を越えているEU各国と違い、日本はその低い自給率から食料の調達を輸入に頼っているのは周知の事実ですが、その事が遺伝子組み換えやゲノム編集された危険な食品が入り込む隙を与えてしまっています。安全・新鮮な食品の安定供給と備蓄、価格を低く抑えて流通させる為には農業の拡大しかありませんが、外資系巨大農業企業の排除や法整備、利権構造をぶっ潰すなどやる事が山積みの日本。正直なところ、日本はもう「詰みに入っているな」と感じています。今、国民がやらなければいけないことは、政治を変える事でしょう。食に関する様々な問題は、今後も取り上げていきたいと思います。
福岡さんは国民皆農なるものを提唱していました。日本の農地は一人当たり一反(300坪)あるそうですが、それを一人一反渡して自分達の食べる物を自給させ、休日には遊びの感覚で家族みんなで自然農法をすればいいじゃないか。このようにおっしゃいました。実に、夢のある話だと思います。
あくまで夢のような話ではありますが、第一次産業にしっかり目を向けて、国がもっともっと必要な支援をしなければなりません。でも、政治家や官僚が金をばら撒くのは票田に対してのみです。
私はちょうどファミリーコンピュータが登場した頃に生まれてきた世代ですので、当然テレビゲームも嗜んできました。それはもう夢中になったものです。それでも小学生の頃は家と外の遊びは半々だったと思います。石を引っ繰り返して隠れている虫を見つけたり、近所の森に分け入ったり、ざりがにを捕まえたり色んな冒険をしました。道端で手頃な棒きれを見つけると、まるで伝説の武器でも手に入れたように大事にして、家路につくまで手放さなかったものです。
子供の想像力はとても豊かで素晴らしいので、自分で自分を愉しませる方法を本能的に心得ています。何でもない日常こそが壮大な伝説であり、毎日が冒険の連続でした。父親は夏になると夜中に私を連れ出して、くわがた虫の獲り方などを教えてくれました。今の親は私の父のように、くわがた虫や地蜘蛛の獲り方など教えてくれないでしょうね。
今は子供達が自然と触れ合ったり公園で遊ぶ姿を見かけませんし、親達は労働者である私ですらほとんど必要とは思わない携帯電話を、子供一人一人に持たせていますね。本当に何が大事であるかを忘れてしまった、或いは知らない大人達が親になれば、子供達は学校のお勉強以上に大切な事を学ぶ機会を、永遠に失う事でしょう。今の子供達のなりたい職業は何かと聞いたら、農業ではなくYoutuberと答えるでしょう。パソコンが無くても生きていけますが、食料が無ければ飢えて死ぬだけです。
福岡さんの格言
格言その一。経済成長五%より十%の方が幸福が倍加するのか。成長率がゼロ%で何が悪い。それがむしろ不動の経済じゃないのか。
格言その二。人類の未来は、何かをなすことによって解決できるのではない。自然はますます荒れはて、資源が枯渇し、人心が不安におののき、精神分裂の危機に立つのは、人が何かをなして来たからである。何をすることもなかった、してはならなかったのだ。人類救済の道は、何もしないようにしようという運動でもする以外に方法がないところまで来ている。
格言その三。火食、塩味つけ、万端ひかえめにして腹八分、手近な所で得られる四季おりおりの旬のものをとればすでに十分である。一物全体、身土不二、小域粗食に徹することである。広域過食が世を誤らせ、人を病ませる出発点になっていることを知るべきである。
格言その一については、正鵠を射ています。たぶん、どの国の指導者も「経済成長」という言葉を呪文か何かのように唱えていますが、成長し続ける経済など絶対に存在しません。発展途上国ならいざ知らず、先進国であればほぼ横ばいの成長率になるでしょう。成長をするのは伸びしろがあるからであり、完成された経済なら右肩上がりにはなりません。もしそれでも経済成長を続ける国があるとすれば、きっとその陰で奪われ続けている人達がいるのでしょう。市場経済では誰かが儲かれば別の誰かが損をしているのですから。ある程度の豊かさを身に着けたのなら、ありもしない天上を目指すのではなく、全ての国民が健康で文化的な暮らしが出来る環境を維持する事の方が大事でしょう。
格言その二については文明の否定の様にも見えます。難しい問題で、私も文明の恩恵を享受している身としては複雑ですが、確かに産業革命など起きなかった方が人類は幸せだったかもしれません。
格言その三にある身土不二(しんどふじ・しんどふに)とは今で言えば地産地消に類する言葉だと思います。仏教用語らしいですが、「自分の肉体と生まれ育った大地を切り離すことは出来ない。自分の生まれた土地で得られるものを食すべし」というような意味かと思います。身近なものを糧として、単純な味付けと控えめな量で飯を食えば、万事良好と言うことでしょう。地球の裏側から食べ物を運んだり、添加物や化学調味料で塗れた物を美味いと言ったり、食べ放題の店を利用したりしている内は、本当の豊かさに気付かず、身も心も朽ち果てていくでしょう。
最後に
福岡さんは文明的なものも否定してる節がありますが、私は俗物的なところがあるので、彼のように電気やガス、水道のない生活を進んで送りたいとは思いません。そこまでの境地にはまだ達しておりません。彼は「元気な内に早く死ねるように心掛けている」と語っていたようですが、そこまでの潔さに達した境地から見える光景とは、一体どのようなものだったのでしょうね。
ただ、人生の価値は長短で決まるものではなく、またどのように生まれてきたか、死ぬまでに何を成したというのもあまり重要ではないように思えます。人は生まれる時も場所も、親も選べません。本人の努力や意志などが介在しないのだから、生まれ持った能力や家柄だの名前などは、ただの記号にすぎず大きな意味は無いと思います。達成すべき目標を掲げて生きるのは良い事だとは思いますが、仮に努力が報われずに夢が叶えられなくても、それは無駄ではないと思います。人がやるべき事は一日一日を大事に噛み締めて、死が今生から自分の肉体と魂を分かつその時まで、日々一所懸命に生きる事だけです。それが人の務めでしょう。特別な日があるのではなく、毎日が人生の最大の見せ場と思って、大事に生きるのが良いでしょう。悔いがある人生とは即ち、その人が全力で生きていない証拠です。
最近、よく利用している近場のスーパーに木村秋則さんの奇跡のリンゴジュースと、池田農園のみかんジュースを発見しました。この池田農園と言うのは熊本県にあり、池田道明という方が経営しているのが分かりました。この御仁は学生の時に福岡さんの本を読み、四国を一周した際に本人を尋ねたことがあるそうです。その時に聴いた話から、自然栽培だけでは生計を立てるのが難しそうだと判断して、農業と画業を両立させた生活を送っているようです。福岡さんの影響を受けて自然農業を始める方が確かにおられるようで、彼の存在の大きさを感じています。今後、木村秋紀さんについても是非記事を書けたらと思っています。
福岡さんの著書に「わら一本の革命」という物がありますが、心ある人が読めば、きっと読後には嵐の後の青空のような清々しさが通り抜けると思います。子々孫々にまで伝えたくなるような家宝になることは間違いありません。
人生と仕事に疲れた今の自分が夢見るのは、むせるほどの緑の香りに包まれ、生物で溢れた自然農園で大の字で寝る。澄み切った深い青い空を見上げてゆっくりと目を閉じる。天地と一体となり、自然と肉体の境界がなくなり、静かにこの世界から消えていく。この世界での役目を終えた時、死という人の最期の務めを果たす時、自然の中で安らかに息を引き取れたら、それが一番幸せかなと思います。
今物質的に豊かであっても、そのなものは永く続きません。資源は有限です。自然界は取り過ぎなければ長い年月をかけて再生する力がありますが、それが追い付かないほど人間の欲が暴走し、いよいよ人口統制しか破壊を止める手段が無いように思えます。識者の間でも今世紀中に人類が滅びると見ている人達は、決して少なくありません。自然を破壊したつけは今を生きる我々ではなく、これから生まれてくる子供達に押し付けられます。刹那的な繁栄という名の自傷行為を続けて、人類の歴史を唐突に終わらせるか。緩く急がず、慌てず、ゆったりと楽する事を覚えて、末永く未来を紡ぐか。どちらか選んで下さい。後者を選んだなら、先ずは身近にある食から考え直してみてはどうでしょうか。